平成も終わり、ということで平成初期を振り返って絵を描いてみる。といいつつも当時絵を眺めつつその頃のほうが目を小さく描いてたなー。あたらしい時代は『令和』かー。ちょっとかっこいいかも。
今年は年明け早々に海外でお仕事、桜が咲くころに帰国したものの体調不良(日本の風土病!?)とかしているうちに再び海外出張っぽい。前回はローマ時代の遺跡とかも見に行けたので、今度はヨーロッパの自然を満喫できるような場所にも行ってみたい!(ま、現実はお仕事に行くわけですが…)。何週間もホテル暮らしだったせいで、朝食のスタッフさんともすっかり顔見知りになって「あら、今朝は遅いじゃない?今日はマラソン大会があるのよ!」などと毎朝世間話の一つもできるようになった。いい人は多いがしかし治安も悪い。日本とは違って欧州では普通の人と悪党とが普通に混在して歩いていて、最初は気づきにくかったが、そのうちいい人とそうでない人が何となく見分けられるようになってきた。あっちの人たちの、そういう人たちを完全にスルーする力がハンパない。ひょっとすると人として見ていないのかも、野良犬や野良猫のような感覚なのかも、と思えるぐらいに。話は変わって変わって。最近とみに盛況な異世界転生もの。異世界といえば火星シリーズやバイストンウェルの物語をついつい思い出してしまうけれど、全くの異世界ではなくて、ゲームの世界に転生してしまうところがこの時代のすごいところ。『.hack』や『SAO』などゲームの中の世界と現実世界の境界レスや帰還不能とかではなくて、死後ゲームの世界に転生してしまうところがすごい(『ログ・ホライズン』は帰還不能系のよにも見えるが集団転生してしまっているようにも思える。『オーバーロード』のアプローチはさらにアイディアがいい)。ゲームの知識(あるいはシステム)をそのまま使えるあたりがチートなのだけれど、これはどんな現象なのだろうか。
ゲームとそっくりの世界を持つパラレルワールドっていうにはご都合がすぎるし、人間の持つ共同幻想が別の宇宙を生み出している、という(最近の『Re:CREATORS』が秀逸)のかなー、神話の世界というかファンタジーですね。『ネバ―エンディングストーリー』や『ラストアクションヒーロー』は純粋な子供が主人公でしたが、ゲームや想像の娯楽世界での大冒険、それを虚構の一時の夢ととらえるか(物質主義)、いやいやゲームでの体験も立派な実体験の一つ(精神主義)ととらえるのか、という世の中の多くの人々の考え方の変化がこうした昨今の”異世界転生もの”ムーブメントに現れているのかもしれません。シャングリラ星万歳。