水素的日常

そろそろいいかな、と思ってBD買って観た『スカイ・クロラ』。

a913.jpg映画公開は2008年だからきっとレビューとかトリビア的なコトは語りつくされているだろう。こう見えてもわたしは情弱なのでネット上のそういう情報にも今に至るまで一切触れておらず事実上この作品がどんな内容なのかも全く知らないまま普通に観ることができた。情弱万歳!

映画館で見たほうがいいと勧めてくれた先輩の言葉は開始後すぐに分かった。空中戦、音響がハンパ無い!一軒家でもないので控えめな音響システムなのだが普通に揺れる迫力だった。たまにはいいよね!?いつも途中で寝てしまって最後まで観れない『アヴァロン Avalon』と違い草薙水素の人形のようなクールなヴィジュアルのおかげか無事エンドロールまでたどり着けた。

現状に満足できずそこから昇華しようとしてジタバタともがいている間は苦しい。絵とかだってそう。もっと上手くなりたい早く描けるようになりたい綺麗に描けるようになりたい。そうやって何か新しいことに挑戦した結果思い通りにならず落胆する瞬間もあるだろう。しかし、何か一つでもそうやって乗り越えられると大きな喜びが得られる。カタルシスという言葉もあるが苦しみの果てに得られる満足感の虜になることも少なくはないだろう。
同じ日常の繰り返しに抑圧を感じること自体が錯覚なのかも知れない。この宇宙においては同じ時間が繰り返し流れることはなく常に新しい時間が流れ昨日と違う今日明日が誰の身にも訪れるわけで、あるいは”昨日の失敗”をいったんリセットし何度もやり直すことで結果現れるかもしれない成功のみを積み重ねることが可能となる人の身勝手な妄想ではないか、と思ったりもする。どこかにある”真の自分”など何処にもなく今ある自分が正にそれそのものであり”それ”は決して繰り返されることのない唯一無二の”今”に確実に在る、そこに妄想として抱く”繰り返し幻想”などは存在しないのではないか、と。そういう見地に立脚して観る”繰り返される日常”に苦悩する人の姿は滑稽…を通り越して愛おしく映るのではないだろうか。

あるいは”人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である(ド・ラ・メトリ『人間機械論』)”という言の葉をヴィジュアル化するとこういう風なのかもしれません。

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