シャンバラ


今年も暑い夏がやってきました。
…といっても一個人が経験する夏なんて人生において100回にも満たないわけで。数限りのある夏なのだからもう少しありがたがってもいいかも。

さて、夏といえばミステリアスな出来事を期待してしまうのは私だけでしょうか?日本の夏はなにか、不思議な出来事が起きるよーな、なんともいえない期待感を纏っているような気がします。

私は子供のころ住人全員を総動員しても東京ドームのシートが埋まらないような小さな町に住んでいました。昼間の街中でさえも人の姿もまばら、夜の七時にはお店も閉って出歩く人もいません。一番大きな建物は数年前につぶれたボーリング場・・・そんな町ですが、年に一度、夏祭りのときには大通り100メートル道路が車両通行止めになってその両側が屋台で埋め尽くされ、夕方になるとぎゅうぎゅうの人ごみになりわっしょいワショーイと、それはもう賑やかでした。普段はロメロの映画に出てくるような生気のない村人ばかりのはずなのに、この夏祭りの時だけは、喧嘩お神輿や櫂伝馬の競争に一喜一憂しながら笑顔を輝かせるのです。

お祭りの翌日早朝に、この100メートル道路にやってくるとお祭り客のおこぼしの小銭がよく見つかるのだけれど、祭りが終わって、また閑散とした街の風景を見るたびに、私はふと思うのです、『年に一度の夏祭りの日、どこからともなく現れた何者かがお祭り騒ぎをしているのではないか』と。

そんな夏を何度か過ごしたある夏のこと、私はあることを思いつきました。夏祭りの夜、あのどこからともなく湧いて出たような人々の喧騒はその後どこに姿を消してしまうのか、それを突き止めてやろうと。夏祭りの日、門限を破る覚悟で一人、雁木の一角に座り出店の焼きトウモロコシを食べながら夜が更けるのを待っていました。

花火が上がり始めるといよいよお祭りもクライマックスです。さあ、花火が終わった後あの人たちはどこに帰ってゆくのだろうか。と、思って花火を楽しむ人ごみを眺めていると一人で泣いている浴衣姿の女の子が目につきました。どうしたの?迷子なの?と、声をかけても泣いているばかり。仕方なく女の子の手を取り、ここなら見つけやすいだろうと、鳥居の袂の目立つ場所に移動します。
最後の花火が打ち終わるとゆっくりと人の流れも動き出して、さあこれから、というところなのだけれど、一向に女の子の連れは見つかりません。屋台で買ったドングリ飴を小さな頬でごろごろと転がす女の子を見ながら私はふとその女の子の浴衣に見覚えがあるような、ないような違和感にとらわれました。この柄、どこかで・・・。

あの夏からもういくつもの夏が過ぎさってゆきました。
子供のころ、お祭りの日にはどこからともなく人がやってくるのではないか、というほほえましい疑問を抱いていましたが、今は全く逆の疑問を感じていることに気がつきます。

毎日毎日続く喧騒の日々の中、一年に一度だけ、閑散とした古ぼけた田舎の街並みが陽炎に揺らぐ風景がやってくる。この必死になって生きなくてもいい世界、そんな幻の世界はいったいどこからやってくるのだろう…と。

練習b254a
ヨルダ・カーバイト:教会の犬。

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