魔法少女庭園

b184b2クラスルームクライシス」7話のジャックされた宇宙機のキャビンから花子がナギサに携帯で連絡を入れるシーンを見ながらふと思った。火星の衛星軌道(?)上のステーションから社用機で宇宙を航行する場面、何の説明もなく携帯を取り出し火星と通話しているのだが、いつの間にか”いつでもどこでも連絡を取り合えたり情報交換できたりする世界”が当たり前になっていることに気が付く。

一昔前ならシャトルがジャックされたという事実をすぐに知ることも、そのサポートを(A-TECはちょっと特殊だけど)一般人が行うというドラマも難しかったに違いない。逆に携帯の普及により成り立たなくなってしまう物語も少なくないのではないか、と思えてしまう。

ウルトラ警備隊でもビデオシーバーという携帯TV通話機を装備していたが、主な通話相手は基地のみ(時々圏外になる)。文字通り全世界と連携できる現代の携帯情報端末には適わないだろう。事故や事件の発生などはメディアよりもSNSなどのほうが情報が多角的で速い。力になってくれる相手は言わずもがな、検索エンジンやアプリケーションが情報処理の補佐もしてくれる。人間の相棒は猫型ロボットではなくジュイスのような携帯の向こう側のコンシェルジュなのかも知れない。
(未来の世界からのび太の元に携帯端末が送られている。その携帯の向こう側にいる知性と対話することで人生を成功させる、みたいな話でもよかったわけだ。携帯で便利な道具を頼めば、いつどこにいても宅急便がやってくるとか。ただし、周囲からは独りごとを話す変人と見られそう…)

端末を介して情報処理する、ということは直接会って話したり作用するのではなく、間接的に作用するということだ。究極的にいってしまうと“世界を箱の中に入れてしまう”ということになる。世界は箱の中に入っており、世界に作用するのには端末を介する。作用の結果もその端末から得てしまうならば、その箱の中には果たして本当に世界が入っているのだろうか。”中国語の部屋”みたいになってしまったが、端末を介して世界で生きられるのならばその主体者にとって本当に世界があるのかどうか、なんてどっちでもいいのだろう。

ただし、端末や情報処理の機能そのものは人の手による仕組みなのだから、そこに他人の恣意が介在する可能性も生じてしまう。

百万畳ラビリンス」では、ある日ゲーム会社でテストの仕事をしている二人が「現実の世界ではないどこか」に放り込まれてしまうという物語。このなんとなく現実の世界に似ているが全然違う世界の中での二人の反応が面白い。あくまで現実の世界を機軸にこの世界を認識しようとする常識的な一人と、あくまでもこの世界を単純に認識しようとする一人。人にとって”本物”ってなんなのだろう?それってどんな価値があるのだろう?と思わず考えさせられる。(共同幻想の好例として”貨幣”をあげておく。お札や硬貨は決して腹の足しになったりはしないし暑さ寒さをしのぐことだってできない。ただ、それに相応の価値があるという認識を持った人がいるからこそ成り立つルールなのだ。これを共同幻想といわずしてなんと言おう)

思えば人間自身だって「目」や「耳」や「手足」を介して世界に作用しているわけで、我々の意識にとっては本当の世界が実際にどうなっているか、なんてわかりやしない。「目」「耳」「手足」それに「意識」といった仕組みは人の手によるものではないからだ。そこに人間は「神」という高次の概念を設定し到達不可能域とした。

このお話では、我々の意識がただよう世界、そこに「目」「耳」「手足」といった器官を介してではなく作用する力を「魔法」と呼ぶ。そしてその領域に到達した少女たちが共有する高次の集合無意識を魔法少女庭園と呼ぶ、という妄想。

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