Copenhagen interpretation

b160c量子力学を修めたことはない。

波動関数は有機化学の講義の中で出てきたと思う。憶えも不確かだけれども確か分子軌道法の辺り。化学の分野では分子の結合において分子の構造や分子軌道を構成する電子軌道に関する知識は不可欠、のはずだが分子の形状を知り、マラカス状の分子軌道同士が軌道のエネルギー差を安定させるように作用すること、程度の認識しか今はない。(sとかpとか)

原子は原子核とその周りに存在する電子から成り、その電子軌道を示すものが波動関数だったか。ただ電子そのものの位置は確率的にしか存在せず、その位置は観測によってのみ決定されるというのがボーアやハイゼルベルグ一派の解釈だ。

そんな風に聴くと観測によってのみ状態が決定される?という摩訶不思議な妄想が始まってしまうが、実のところ一派の言いたいことは量子力学じゃ(拡大解釈すると人間ごときの頭では)世界の真理には触れられないよ、ということらしい。量子力学は真理を解き明かす学問ではなく真理を利用する学問ともいえる(そもそも力学というもの自体、現実世界のメカニズムを関数化・モデル化しそれを利用するための学問なのだ)。
波動関数が物理的に存在するということになればその波動は光の速度を超えることになるので、我々の世界の認識も大きく変わってしまうことになるが、真理はともかく波動関数は今のところ”使える”モデルといえるのだろう。

さて、力学は要はエネルギーのメカニズム。この世界を巨大なビリヤードにたとえるとビックバンという最初の一撃が加えられたのちの結果でしかない。物質が世界に存在すること自体もエネルギーの一態であり、ヒトが観測する尺度から比べてミクロ的・マクロ的に多様な層構造を形成しているものの、全ては転がるボールなのであり、その理屈からすると全ての力学は一つに収束するものである。

ヒトもその脳もさらにはその脳内で作用する化学物質もその連合で作用する電気信号さえもが、全て転がり続けるボールの力学的な延長であるとするならば、いまこの文章を書くという行為そのものも最初の時点から”ある意味確定していた”ことだといえる・・・そんなこと本当にあるのだろうか?反証を考えてみた。

『神は賽を投げない』としても『神は二度キューを突く』と考えたらどうだろう。今の世界は最初の一撃によって確定したのかも知れないが、それが最初の一撃だけじゃなく、幾度ものエネルギーの流入があるとするならば確定的ではなくなる。もしかすると、平行世界からエネルギーが滲み出したりしているのかもしれない。ボクの脳がそれを受信し、そしてボクは世界を革命する!・・・という妄想。
(ただし、それは”エネルギーの流入”そのものの解明に話がシフトするだけで本質的にはなにも変わっていないのだが)

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