今週は雨ということで山登もお休み(泣)。本当はある程度いろんな天気も経験しておいたほうがいいのかもしれませんが……という訳で以下妄想。子供のころ見たアニメ。何の気もなく観ていたわけだけど最近そういうアニメの分析をしているサイトをあちこち眺めていろいろ知りました、当時そんなアニメを創りながらいろいろ葛藤していた製作者たちのことを。
子供向けのお話、とはいえこんな正義の味方がなぜ存在するのだろうか?とか戦う相手が本当に悪なのかとか。それゆえいろいろな設定を考えたり、時には物語の中で主人公そのものが葛藤したりと今考えるとそんな当時の事情が少しだけ垣間見えたりして面白いものです。
いろんなお話を妄想するとき、物語に登場するキャラクターの倫理観や存在意義についてふと疑問を抱いたり、そんな経験が過去にありました。空想世界とはいえこれはいかがなものか。
人vs人はちょっとなー、ということでバトルの対象をバケモノとかに設定してみたりもしますが、バケモノを次々を屠っていくうちにふと「こいつらも生きてるんだよなー」なんて思ってしまうと一方的にバケモノを倒すのにも躊躇が出てきます。そもそもバケモノはなぜ人間を襲うのかという理由も気になる。
お互いの種族がその存続をかけて戦うとか、そんな展開になってくると代表して戦っている人は人の業を肩代わりしてくれてる構図になってもの悲しい。めでたく人類が勝利しても代表して敵を倒した人を英雄としてたたえるだろうか。古代ローマの闘技場でパンクラチオンに熱狂していた倫理観ならともかく、人類皆なかよくとかいってる倫理観では、みんなの罪を一心に受けたその「穢」を「禊」ぐために死んでしまうとかそういう展開にカタルシスを感じるんではないんだろうか。(『インディペンデンスデー』よりも『アルマゲドン』みたいな。……古いねw)
『退魔譚』はそういう倫理の壁を上手くクリアしている類型の一つではないかと思う。悪事を働く人は人そのものが悪いのではなく、「魔」が差した、つまりちょー純粋な「悪」なる存在がそうさせたのであり其の原因である「悪魔」を祓ってしまえば「おれは今まで何をしていたんだ…」的な大団円。そして魔を殺すことで汚れてしまう側はその穢を「神」に押し付けて聖なる戦ということで、めでたしめでたし(争いに"聖なる"もヘチマもないわけだけど。悪意があろうが無かろうが争いは争いだよね事実)。