Tao-Maestro
『道』は何物かであり、また何物でもない。
中国で生まれた唯一の宗教であり、中国思想界の根底にある『道』という概念をその中核に持ちつつも様々な要素を取り入れて成り立った道教。その目的は不老不死となり永遠に生きることにある。
この思想には、すべてのものをあるがままに受け入れる貪欲さがある。そして神秘や怪異や永遠の命および天界などの超自然的な存在を、自分たちとは絶対的に異なる”神”として定義づけるのではなく、神秘や怪異を秘術によって成敗支配し、挙句修行の果てに不老不死を手に入れ天界に上る、という実に貪欲な考え方である。
自然の神を恐れ敬うのではなく、自然の理を解明し自然を意のままに操り、人々に害をなす超自然の存在を懲らしめ、その果てには解脱し天界に上る・・・東洋の人々はそうやって天界に上っていった人々を神と呼び、敬うのである。ここに西洋思想と東洋思想の絶対的な違いがあるように思う。欧州とアジアにおける古代の奴隷の歴史にも関係があるのかもしれない。
『道』の真理は人に教えてもらったり書にして伝えられるものではなく、自らが見出すものとされている。目に見える物体に縛られることなく、直感的にこの世界のしくみを理解(というか同一になる)という考え方も、即物的な西洋思想とは対照的である。この世の中のものはすべてモノの様(さま)であり、何物かであり、また何物でもない、という言葉は近代の量子論に通じており興味深い。
量子生物学を知るにつれ、こころの働きと量子世界との関係への興味も深まり、それならばこころを知ることによりこの世のしくみを知ることにもつながるのではと『道』の歴史に思いをはせてしまう。
この21世紀という時代は(ヒトの一生という短いスパンで)目まぐるしく進歩してゆく、実に面白い時代だ。車が空を飛んだり(ドローンが自家用車サイズになればできそう)、チューブの中を列車が走ったり(もうすぐ実現しそう(ハイパーループ))はしていないが、科学技術は着実に進歩し、より少ない冨(エネルギー)で、想像もつかない効果を得ることが可能となるだろう。その時、人がそれを受け入れるかどうかはまた別なのだが。
かつて『道』を生み出し、この世のすべてを得たいと考えた貪欲な人々はそれを得るだろうし、一方、自らの想像を超えた存在を恐れ敬う人たちは神への冒涜だ!と抵抗するかもしれない。だがしかし、そういった二極の動きさえも『道』なのだ。
道とは空虚なるものである。どうしようとも満ちることはない。その淵は万物の始原のごとく、深淵極まりなく、すべてをたたえるかのようだ。(「老子」より)
という妄想。