サンダルフォンとエノク

練習b246c例によってものすごいスピード感で月日が流れていますが何か。

とにかく一週間過ぎるの早い。こんな調子だと今年もアッという間に終わっちゃうのかもしれません。日々のちょっとした合間に、このまま人生も終わってしまうのかな…などと思ってしまうくらいには時間の潮流に流されているのかも。

もちろん世の中にはいろんな人生を送っている人がいる。その中には生まれや境遇に依存しているものも少なくはないが、そうでないものも当然あって、自分もその選択肢を選びさえすればそういう人生を送ったりできるのだ、と思うと不思議な気持ちになる。今は自身の選択の結果にあるのだろうか、と。

購買者の心理にこんな話がある。”沢山の種類の商品を陳列している棚よりも数少ない種類を陳列しているほうが売り上げは大きい”と。人は何かを選択するときに同時にそのほかのなにかをあきらめていると。沢山の種類の中から何かを選ぶときには、選択肢が少ないときに比べて後悔の数が多いのだという。

人生においては選択する、という考え方自体が間違っているのかもしれない。何かを選ぶのではなくやりたいことをするのだという認識のほうが自然なのかも。んで、この“やりたいこと”ってやつがポイントなのですが。

人というのはよく”自分のことがよくわからないものだ”といわれる。

生命体としてのヒトがその種の最初期から自意識というやつを持って誕生した、とはさすがに思えない。他の生命体と比較して脳が発達し、道具を使うようになったり、知識や経験を個体から個体へコミュニケーションによって伝達することの延長線上に、自意識の発明があったと考えられている。つまり、自意識という機能は後天的なもの。ヒトをハードウェアとすれば自意識はソフトウェアみたいなものじゃないだろうか。

ハードウェアとしてのヒトは本能的な欲求を持っている。ヒトの制御は自意識が司っていると考えがちだが、注意深く自分を観察すると割と意識していない状態で勝手に体が動いていることに気付かされる。(ちょっとしたしぐさや立ち振る舞いなど、意識して体を動かしたりはしない)。自意識はハードウェアとしてのヒトに時々指令を出すぐらいなのだと。
そして戦略的な指令(短期的ではなく長期的な目的を達成するための行動)を出すときヒトは本能的にストレスを感じているわけなのだ。(前述した購買者の後悔はハードウェアとしてのヒトが感じるもの)

自意識とハードウェアとしてのヒトとの関係は人それぞれなのかもしれない。主従だったり従主だったり、対等だったり…相思相愛だったりするといいのだけれど。(パーソナル生存戦略だね)

そして、例の”やりたいこと”っていうのは自意識のやりたいことなのだ。ハードウェアとしてのヒトは衣食住足りていれば安定した状態を継続したいのだろうが、自意識はヒトの発明した戦略的な機能、昨日と同じ明日があるとは限らない、という知識を基に常に二手三手先を考えて作戦を練り、行動を変えるという機能を担っている。

では、結局のところ自意識のやりたいことって何なんだろう?これは簡単にいうと”いろんなことがやりたい”なのではないだろうか。自意識…もー情報生命といってしまうが、その生存戦略において知的成長こそがその手段であり、そこには発明や発見だけでなく、体をよりうまく操ることや感覚の追及も当然含まれる。

この情報生命はやがて脆弱なハードウェアとしてのヒトから”機種変更“する日もやってくるに違いない。人間が旧機種になった未来、ターミネーターみたいな未来以外に明るい未来感はないものだろうか…情報統合思念体。

という妄想。

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