Zero
一年以上も前になっちゃうけれど『ドラキュラZERO』は映画館で観た。
「ところでこのZEROって何?」
「邦題だけで原題は違うみたいだよ。ストZeroとかFate/Zeroみたいな感じ」
「なるほど」
「(納得するんだ・・・)」
映画が終わったあとの飲み会でのみんなの評価は散々なものだったが、超自然の存在になり人の理を外れて不死者になるという話は私は結構好きだったりする。特にドラキュラZEROのエピローグは秀逸だ。現代に至るまでのさまざまな妄想の余地が残されており創造力を刺激してやまない。『ハイランダー』という映画が大好きなだけにそういう展開を想起するとともに、このロマンスの要素がまた素晴らしい。
その昔D&Dでエルフの少女をプレイしていたのだけれど、そのときエルフは長命種というだけあって人間とは根本的に考え方が違うのだろーなーと思っていた。執拗に自分を狙う人間がいたとしてもほんの数十年避けてさえいれば相手はたいてい死んでしまう。本当に危険なのは広く人に知られてしまうこと、なのだろう。
不老不死となった存在にとってもやっかいな人類なのだろうが、その存在を知られないように避けてさえいれば気にするようなものではない。厄介なのは自分の存在に興味を持つ、持ってしまう存在であり、その影響が永続的なものであるのならそれは脅威となる。
自身と同じく不死者となったものは除くとして、人の心の間に永続的に残るもの。(1)原始的なものでいうと伝承や伝説、(2)それらが体系と成り思想を成すものとして宗教、(3)さらに純粋な知識として継承されこれに人類の脅威を排除するという目的が加わった一族、これらが不死者が覇道を歩む上で脅威となるのではないだろうか。
特に(3)などは能力や弱点などが語り継がれる(1)や(2)に比べて歴代に渡りその能力を研究し対抗策までを編み出すような波紋の一族的なやっかいな存在となるだろう。一度はそのような危険な目に遭い、以降そういった兆候を丁寧に消し去ることになるのだが、これはこれで寂しいライフワークだ。何しろ自分の存在の記憶・記録をかたっぱしから消していくのだ。誰も知らない知られちゃいけない、私が誰なのか。
そういう人寂しい果てしない時間の流れの中で、ふと人に魅かれることもあるだろう。そして何度目かのロマンスがまたはじまる・・・そういうのを妄想するのは存外に楽しい。”千年魔道”はそういう妄想の集積物になりつつある。
トリスタンのキャラ設定を描き直して見た。
登場人物も沢山いて、各部のディテールなんか当然まったく覚えられないのでキャラを描くにあたってはキャラクター設定が必要。また、月日が経つとともにだんだん絵柄も変わってしまうため、たまに見直しが必要だ。
見直しにあたって引き出しに詰め込まれた古いスケッチを引っ張り出しているうちに、懐かしいものが沢山出てきてすっかり懐古モードに耽ってしまった。2016年は少しでも未来に向かって生きていたいッ!