ファンデルワールスエンジン
ムーブメントにはアナクロな内燃機関が用いられています(爆音です)が前輪制御にはサイバネで培われたアーティキュレーション制御のノウハウが詰め込まれています。倒立は勿論、キックバックターンやワンエイティーなどのエクストリームマニューバも可能。バイクのハンドルに相当するスティックは6自由度(左右はリンクしておりフィードバックもあるのだ)と思考戦車の操作系と同じに設計されている。
そういえば21世紀になってもバイクや自動車ってやつもずいぶんと進化したみたいだけれど、基本的な部分って変わらないよね。車に変わる人類の新しい乗り物ってやつ、どこかで出現しないかしらん。
いわゆるイノベーションのジレンマって奴で、自動車のメーカーなどは自動車の生産に特化しすぎててそれゆえその代替になるような新しい発想(破壊的イノベーション)を軽視しがちになってしまう。いずれにしても今の車に取って代わる乗り物としてのまったく新しいイノベーションがそのうちやってくるに違いない。19世紀に生きた人はそういう世界の変容を体験したはずであり、創造するだけでもワクワクしちゃうよね。
そんな社会そのもののあり方を変えちゃう技術革新なんかに思いを寄せつつも気がつくと4月も終り。この春は体調を崩してしまいお花見に行くこともできなかった・・・。そんなorz感につつまれたとき、近所の子供が口ずさんでいたこんなフレーズを耳にした。
いつでも どこでも なんでも できる♪いつでも どこでも なんでも できる♪
そのフレーズ、よほど気に入ったのだろうか、姉妹同士手をつなぎ見つめあいながら繰り返しなんども交互に口ずさんでいた。ああ!なんという万能感なんだろ!大人が口にすると、ちょっと(かなり)中二病っぽいが(それこそ休日の午前中に感じる「ああ、今日何して過ごそうかな♪」という高揚感にも似ている)何の根拠もなく勇気付けられる不思議フレーズだった。
“できる♪”なんと不思議に元気の出るフレーズだろう!この不思議力の源はなんなのだろう?考えてみた。
「できる」という言葉は「できない」と対をなす言葉。「できる」と「できない」の関連が示すこと、それは可能性といえるだろう。よりメタ的に考えるため、この「可能性」をパラメータ化してみる。
ヒトは「可能性値」を持っている。「可能性値」すなわち「できる」力だ。ヒトは可能性値を消費することで何かを実現し生きている。この可能性値が減ってゼロになるとなにもできなくなってしまう、すなわち死ぬ。
可能性値は時間とともに減ってゆく。何もしなければ減ってしまう。減った可能性値は睡眠によってある程度回復する。これが朝感じる「ヨーシ!今日も頑張るぞー」という高揚感の正体だ。可能性値の総量は変わらないが、可能性値の消費レートは変動する。「やること」に習熟するなどがこれにあたる。習熟度が低いうちは成し遂げるのに多くの可能性値を消費してしまうが、それに習熟することで可能性値の消費レートが下がる。可能性値はある程度、貨幣に変換することが可能だ。人類が発明した「貨幣」…それはこの可能性値を蓄積可能にするために他ならない。
この「可能性値」を行使し何かを「なす」こと。ああ!あの子供達は・・・その技!そう、その魔法か何かのような技を知っているに違いない。わたし達が忘れてしまったその魔法を。