ニライカナイ
琉球地方の各地に伝わる他界概念にニライカナイとかいうのがあるらしい。らしい、というのはものの本やメディアを通じて”知った”話であって、自分自身が”ニライカナイ”を理解している人から直に聞いた話ではない。ましてや人づてに間接的ですらない。そいういう曖昧な概念として自分のなかにある”ニライカナイ”・・・この時点ですでに十分に幻想的といえるだろう。
我々の住む世界とは遠く遥かかけ離れた彼方にある異界。あるものは海の底あるものは地の底にあるといい、では人類が到達できる世界ではないかというと死んだものはニライカナイへと逝きそこで七代を経て祖先の守護神としてレベルアップするという。すでに多くの民俗学者や研究者によって手垢にまみれてしまった過去の逸話を引っ張り出すつもりもなく、つれづれに思うことを書き綴ってみたい。
異界信仰という、人がこの世ではないどこかの世界を夢想しそのイメージにココロの拠り所を持つという思想が昔からこの国にはある。東方や西方という枕詞も方角の概念ではなく、西方は日没するところ、すなわち死して向かう世界を意味し、その逆に東方は聖なる世界と考えられた。天や地に遍く十方虚空と微塵世界において。(琉球神道の姉妹(ウナイ)信仰も興味深い題材だけれど)
子供の頃は”昔の人は生きるのに精一杯だったので、せめて想像の中だけでも理想的な世界を思い描いたんだなー…”などと考えていたのだけれど近年になって違う考えを持つようになってきた。常世の国や根の国などの異界信仰をはじめとしたさまざまな神話や言い伝えにはアトミックでそれでいて自由な発想と緻密に考えられた細部を持っていてそれに触れることはいまなお想像を喚起してやまない。こんな自由な想像や発想をぞんぶんに発揮してた当時の人たちは現代の人たちに比べて物質的豊かさに反比例し全然存外にココロ豊かだったに違いない。
こんな考えもある。未知なる事象に関してその原因を解明すべく想像力が力を発揮した、しかしやがて人類は人類の叡智を積み重ねることで未知を駆逐しその行き着く先の世界では想像力が死に絶えるというディストピア。望遠鏡で月を眺めやがてロケットを飛ばし月を越えて太陽系の外へ、しかしそのどこに向かってもこの宇宙や世界のあり方は幾億パーセクの彼方まで式の世界だ、特異点の向こう側を除いて。
人はどこから来てどこへ行くのか、死ぬとどうなるのか、死ぬために生まれてきたのか、異界に寄せる想いってなんなんだろう…そんな心の底からの問いかけは、えぽっくさんのメッセージに触れるとすこしだけ判る(11/4/29あたり)。
十万億土はこの世から極楽浄土までに横たわる無数の仏土のことで転じて遥か彼方を意味する。「倶舎論」には須弥山とそれを取り巻く世界の大きさが描かれており三千世界を一仏土と数えるとするとその十万億についても語ることもできそうだけれど、それは無粋というものではないだろうか。