月嬰人形

b041bいい季節になってきたので最近また山歩きに出かけてたりする。

有名なハイキングコースと違ってローカルな山ではトレッキング中、他の誰とも出会わないことも少なくなく、人里を離れて一人自然の中にいるとゆーのはこれまたまた格別な感覚なのだ。このあいだは山道の途中で蝶の不思議行動に遭遇してしまった。
雑木林に覆われ見通しの悪い尾根道を歩いていたときのこと、前方の地面にジャノメチョウと思しき蝶を見つける。そのまま近付いてゆくと飛び立ちどっかに逃げてゆくと思いきや、こちらに向かって飛びかってくる。ぶつかっては後ろに下がりまた突進するという行動をなんども繰り返す。蜂とは違って恐怖はないのだけれど、とりあえず後退して様子を見てみる。すると蝶はまた地面に降りてゆっくりと羽を閉じたり開いたりするのだ。こちらが近付くと再び飛び上がって威嚇するように何度も何度も飛び掛ってくる。

ちょっと気味が悪くなり尾根道をもと来た道へと引き返すことにした。(オチはありません)

いろいろと霊的なものと関連付けられることも多い蝶、虫嫌いなのだが蝶はけっこう好き。
全然関係ないけど蝶になった女の話を思い出す。(その昔、蝶が好きだった女がいた。女の死後、体中から無数の蟲が這い出し瞬く間に数多の蝶となって姿を消した、とかそんな言伝)
人と自然の距離がぐっと近かった昔は今よりも幻想が身近にあふれていたんだなーなどと考えつつ、ふと子供の頃よく遊んでいた古い社のことを思い出していた。

わたしが生まれ育った町は昼間の電車が一時間に一本走っているかいないか、という田舎の町だ。

駅前にはスーパーマーケットもあるが三方を山に囲まれ平野部は少ない。家の裏手には山が迫っていて、その山すそは襞のように入り組み間間にちょっとした集 落が点在していた。子供のころは探検気分でそういう集落に近所の子供たちと一緒によく遊びにいっていたものだ。思い出に残る古い社はそういった集落の一つにあったもので、舞台のような建物と境内に聳えている一本のねじれた大樹が特徴的だった。辺りには人気がなく陽は当たるのだが静謐な雰囲気をもった場所だった。

このねじれた大樹が不気味な風貌で、幹の中腹にある無数の瘤がとくに気味が悪い。下から見上げるとちょうど人の顔のように見える のだ。それで昔から”『かみかくし』にあうたびにあの瘤は増えていて、やがて瘤がその子供の顔に似てくる”と仲間内でいわれていた。(“かみかくし”…月 が出て皆が帰った後も家に帰らず一人で遊んでいた子供はよく行方不明になってた)

普段は人気もない古びた社なのだが年に一度だけお祭りがあった。お祭りといっても出店が出るようなものではなく舞台の上で舞が奉納されるといったものだ(今思うとこれはこれで不思議な光景だったのだ)。大蛇が出てきていたので日本神話なのだろうか、子供心にはそんな物語の背景も理解しようがなかった。

木の瘤が人の顔に見えるとかそんな幻想は、思えばついこの間まで自分のなかで随分とリアリティをもった認識だったことを思い出しながらその日は山を降りた。

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田舎を離れてはや数十年、帰省した折に久しぶりにあの古い社を訪れてみると風景はまるで一変していた。

あの禍々しい大樹は根元から切り倒されており、そこには社ではなくただのあばら家のような粗末な小屋の跡形があるだけだった。

子供の頃の記憶というのは存外当てにはならないものだ。`,、(’∀`) ‘`,、

 

もしかしたら

もしかしたら、あの禍々しい大木は実は本当に夜毎”群れ”からはぐれた子供を飲み込んでいたのではなかったのだろうか。

そして、その存在を退治するために秘かに役人から依頼を受けた女子高生姿の拝み屋がやってきて呪的な闘争の末に手にした刀であの大木を根元から切り倒してしまったのではないだろうか。

そうやって子供を食らった大樹を彫りだした呪い師によって造り出される人形は人の意思によって使役される”あやかし”となって権力闘争の裏の道具として重宝されるのではないだろうか。

その道具は”月嬰人形“と呼ばれている。

 

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